こんな私でも救われた②

「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現された。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。」(マルコ一六・9)

復活のキリストが、最初にご自分を現わしたのは、十二弟子ではなく、七つの悪霊に憑かれていたマグダラのマリヤでした。私も二つの悪霊に憑かれていましたが、キリストは愚かな私にご自分を現わしてくださいました。これは、唯々キリストにある神の恵みによるのです。
悪霊に憑かれたのは、自分の愚かさのゆえです。それなのに、神はキリストのために生きる将来へと、私を導いてくださいました

悪魔礼拝堂を訪れた後、ワシントンDCでトーマスと別れ、私はフィラデルフィアに住んでいる日本人の牧師のお宅に、年末年始の一週間ほど滞在しました。その当時、私はクリスチャンホームで育ったにもかかわらず、教会には行っておらず、聖書も読んでおらず、キリストについて名前以外は何も知らない状態でした。私には「主イエスを知る人」という意味で「知主夫」という名が付けられていましたが、主イエスを知り、従うには、まだ時間がかかりました。

大晦日に顔を出した悪霊

あるアメリカ兵と結婚した日本人の知り合いの婦人が、フィラデルフィア近郊に住んでいました。年末に、その方から筋子を二〇ドルで買いました。一九八二年当時、一ドルは二四〇円でしたので、私はその筋子に日本円で五千円ほど払ったことになります。

その高価な筋子を、滞在していた牧師宅の冷蔵庫の一番奥にこっそり入れておきました。大晦日の日の牧師宅には、日本人教会の人たちが集まっていました。夕食時のことです。なにげなく冷蔵庫を開けた若者が、私が大切にしまっておいた筋子を見つけてしまったのです。牧師も一緒になって「おぉ、筋子か~。みんなで食べよう」と言っているところに、私は出くわしました。私は、筋子を楽しみにしていたので、それはないだろと、勝手に食べようとしている牧師にくってかかりました。

「俺が二〇ドル出して筋子を買ったんじゃないか!」

「お前は居候のくせに何を言ってるのか!」

互いにムキになり喧嘩になってしまいました。その場にいた人たちは、しらけてリビングに戻り、私だけが食堂に取り残されました。

 次の瞬間、言葉に表わせない猛烈な気持ち悪さが私を襲ってきました。立っていても、座っていても気持ち悪いのです。「このままでは死んでしまう」と思い、救急車を呼んでもらおうと必死の思いでリビングに行ったのですが、さっきまで喧嘩していた牧師は、私の顔を見るなり

「お前なんか二階に行って寝てろ。気持ち悪いんだろ」

と取り合ってくれませんでした。そんな状態の中、腹の底から熱いものがグウッと喉元まで上って来ました。そして、それは私の口から

「祈ってくれ~っ」

という言葉になって出て来たのでした。決して自分の意志で言ったのではありません。その熱いものが言わせたのです。今となっては、なんとありがたいことだったかと感謝しています。そうでなければ、本当に死んでいたかもしれません。さっきまで喧嘩していた牧師も、さすがに「これはただごとではない」と思ったようで、祈り始めてくれました。

真っ青な顔で死にそうな私を見た人の中には、悲鳴のような声を上げて帰ってしまった人たちもいたほどの騒ぎでした。その日は大晦日で、リビングの時計は、午後八時を指していました。さっきまで喧嘩していた牧師は、新年のカウントダウンをする午前零時まで、四時間も祈り続けてくれたのです。

  当の私は、悪霊に憑かれているとはつゆとも知りませんでした。ただ、今まで味わったことのない、死んでしまうのではないかと思うほどの、得体の知れない気持ち悪さに襲われていました。

現われたキリスト

牧師は、いろいろな聖書の箇所を開いて読み、「あなたはこれを信じるか」と聞いてきました。「信じてない」なんて言ったら死ぬかもしれなと、確信はなくとも聞かれるたびに「信じます」と答えました。すると、決まって気絶し、しばらくすると意識が戻ってくるのです。それが四時間も繰り返されました。

すると、不思議なことにピアノ線みたいなものが見え、私はそれにしがみついていました。手を放すと心臓が止まるかもしれないという恐怖に襲われつつ、三〇分に一度くらい気絶する状態が続いたので疲れ果て、ついにそのピアノ線から手を放してしまいました。そして私は、奈落の底に落ちて行きました。

しかし、意外にも着地はソフトランディングだったのです。私の落ちた辺りがだんだんと明るくなっていき、ついには眩しいほど光り輝き、なんと、そこにイエス・キリストが立っておられたのです。

  お顔は見えませんでした。全体の姿はぼんやりでしたが、腰から下はハッキリ見えました。そこは輝くような光で満ち溢れていました。その瞬間、私は完全に癒されたのです。それまであった気持ち悪さと苦しみと恐れが、嘘のように、何の症状も残らず、いつもの健康な状態になったのです。

その時、そこに居合わせた「現在は聖霊の賜物による働きはない」と教えていた教団からアメリカに来ていた二人の若者が、同時に異言を語り始めました。それは、その部屋におられたキリストの顕著な臨在によったのだと思います。壁に掛かっていた時計を見ると午前零時だったのを覚えています。暗闇から光へと救い出されたときが、ちょうど新年を迎える時間だったというのは、嘘のような出来過ぎた話ですが、本当のことです。

なぜ「私は悪霊に憑かれていた」と言い切れるのでしょうか。それは、黄緑色のプニョプニョしたスライムみたいなものが二匹、カーペットを這ってリビングの壁から向こうに抜けて行くのを見たからです。それを見たのは私だけでした。

  キリストが奈落の底まで一緒にいてくださり、愚かな私を救ってくださったことで、私の心は触れられ、号泣しました。それは、完全に癒されたこともさることながら、それ以上に、キリストが実在され、私の魂を揺さぶったからでした。

それでも自己実現へまっしぐら

私は子どもの頃、親に連れられ無教会の日曜学校に通っていました。しかし、そこでは聖書のことばの一つも覚えることはありませんでした。神様の存在はなんとなく意識していましたが、キリストについてはまったく知らないままだったのです。私の心は鈍感で、教会ほど退屈なところはないと感じ、中学一年生の頃には、教会を離れていました。

  そんな私でしたが、奈落の底でキリストに出会ったとき、「キリストは本当に生きていたのか!」と、初めてキリストの存在が心に刻まれたのです。その体験を思い出すと涙が出て止まりませんでしたが、数日後にはスキーに行き、その後も、自己中心に生き、聖書を開くことも皆無でした。当然、キリストに従うことはありませんでした。

  後日、牧師に呼び出され、「ラララ」と言ってと指示されました。私から異言を引き出そうとしていたのです。いくら「ラララ」と言ってみたところで異言は出てきません。そのときは「アホらしいから、帰るわ」という感じで終わりました。

  サバンナの大学に戻った私は、相変わらず自分の野望に向かって生きていました。まだ二十代半ばで、自己実現のため精力的に動き回っていたのです。その当時の私は、写真学科と絵画学科、またサッカー部、そして三つのアルバイトに自分のエネルギーを注いでいました。大学生活は楽しく、奨学金をもらい、コンテストで賞をもらい、どんどんと上昇志向になっていきました。

危ない教会探し

実は、サバンナに戻ってから、私はいくつかの教会に行ってみたのです。悪魔礼拝に私を誘ったパンクロッカーのトーマスを、今度は私がキリスト教会に誘いました。サバンナという町は、その昔、ジョン・ウェスレーが、アメリカンインディアンに福音を宣べ伝えるために宣教師として来た町です。しかし失敗し、彼は失意のどん底でイギリスに戻りました。が、神は大いなる恵みを持って彼をメソジスト運動の祖としたのです。

私はトーマスを連れて、そのメソジスト第一教会の夕拝に行ってみました。さらに、サバンナがあるジョージア州には、サザン・バプテストの教会も多くあったので、その教会にも彼を連れて行きました。美大生だけの日曜学校を作ってもらい、基礎的な質疑応答をする機会も与えられました。

一方で、トーマスが怪しいユニテリアンという、三位一体を認めないカルトを見つけて来たので、そこにも行ってみました。スティービー・ワンダーのレコードを聴いて、「ああでもない、こうでもない」と分かち合いをするのです。

私はキリストに出会ったものの、まだ自分の罪を認める心の状態にはなく、従って十字架の愛を知らず、どの教会がまともなのかを識別できずに、さ迷っていました。

 そんな、信仰的には暗中模索の中で、ある日、ひとつのアイデアが浮かびました。「そうだ、大学を卒業したら、ロンドンから北京まで陸路で旅をしよう。そこで知り合いを作り、さらに知り合いを紹介してもらって、コマを進めよう。各地で写真を撮り、日記を書いて本を出版しよう!」と。

神の深い憐れみと忍耐をよそに、私はそのアイデアに興奮して動き始めたのです。

ジーザスコミュニティー国分寺牧師 桜井知主夫

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この記事を書いた人

桜井 知主夫のアバター 桜井 知主夫 プロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者

やさしく学べるクリスチャンブログにようこそ! 私は、東京にあるプロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者の桜井知主夫(さくらいちずお)です。今まで、3つの教会に牧者として仕えて30年になります。’99に現在の教会を開拓する機会に恵まれ、今日に至ります。聖書的クリスチャンライフをわかりやすく説明します。

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