もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(ローマ六・8)
あるとき夢の中で、キリストは私にこのことばを読むように語られました。しかし、夢から覚めて読んだものの、まったく理解できませんでした。ただ「死んだら生きる」という、謎解きのようなことばが私の心に残りました。
そして、聖霊のバプテスマ(浸す)を受けたときに、そのすべてを説明することはできませんが、感覚的に死ぬということと生きるということを体験しました。今回はそのことを中心に分かち合いたいと思います。
テゼ共同体の創始者ブラザー・ロジェ
テゼ共同体は、ブラザー・ロジェによって創立されました。彼は、スイスの神学校を卒業すると、母親の故郷であったフランスを自転車で旅行しました。旅の途中、テゼという村を訪れた際、住民から「私たちの霊的指導者になってほしい」と頼まれ、以来、天に召されるまでそこが彼の住処となりました。
第二次世界大戦が始まると、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人や他の地域からの難民が、この共同体に助けを求めやって来ました。ブラザー・ロジェは彼らを自分の故郷であるスイスへと逃し、彼自身もナチから逃れてスイスへ一時避難しました。
戦後、テゼには、ドイツ敗残兵の収容所が作られました。テゼのブラザーたちは、共同体で採れた野菜をドイツ兵にも分けていたので、フランス人からは強く非難されました。
一九六〇年代になると、若者の間で、テゼ共同体のことが口コミで広がり、ある夏には一日に五千人ほどが集ってくるようになりました。そこでは、戦後世代のフランス人とドイツ人が和解し、それ以来、多くの人の和解と祈りの場となっています。そして今でも、世界中からキリストとの関係を深めるために若者が押し寄せているのです。
「もう2週間ここにいなさい」 えっ、どういうこと?
さて、私もフランスのストラスブルグで出会った韓国人の神学生に勧められ、テゼ共同体に向かいました。そこで、スイス人のルイジと仲良くなりました。彼は街角でクラリネットを演奏し、小銭を稼ぎながら旅を続けていました。彼と、意気投合して「スペインをヒッチハイクで周ろう!」となりました。
ある晩、テゼの夕拝で祈っていると、誰かに肩を優しく叩かれました。振り返って見ると、ブラザーの一人が手招きし「私について来なさい」と言うのでついて行くと、森の中にある小屋に辿り着きました。中に入ると、一〇名ほどの若者を前にしてブラザー・ロジェが話していました。その場に招かれたのは、神の導きでした。なぜなら、三年後に再び、ブラザー・ロジェと劇的な再会を果たすことになるからです。
テゼで三日間を過ごし、ルイジと私は丘の下にあるバス停に向かいました。彼には先にバス停に行ってもらい、英語話者を担当していたブラザー・トマスに挨拶に行きました。すると彼は、私の目を見据え「あなたは、もう二週間ここにいる必要がある」と言うでのす。一瞬パニクりましたが、「一生のうちに、こんなチャレンジをしてくる人は何人いるだろうか」と、私の頭は激しく回転し、次の瞬間「このオファーを受けるべきだ」という結論を下したのです。
バス停で待っていたルイジに事情を説明すると、「えっ嘘だろ!」と反応しましたが、すぐに理解してくれて、後に再会することができました。一方のブラザー・トマスとは、翌日から毎朝食後の一時間ほど、じっくりと語り合う時間が与えられました。
彼:「あなたは、何をしているのですか」
私:「ロンドンから北京まで旅をして、知り合いを作り、彼らに知り合いを紹介してもらい、北京までコマを進めて行きます」
彼:「それをしてどうするのですか」
私:「写真を撮り、ジャーナルを書いて、本を出版しようと思っています」
彼:「なるほど。で、本を出版してどうするのですか」
私:「有名になります」
彼:「有名になってどうするのですか」
その質問をされた途端、旅を続けている動機であった自己実現という燃料が、ドボドボドボっとこぼれ落ちてしまいました。燃料がなくなった私は、旅を続けられなくなってしまいました。ブラザー・トマスとの出会いは、《自己実現コース》から、《キリスト実現コース》へ大きく舵を切るきっかけになったのです。
旅を断念し、帰国して仕事を始める
実は、私はそのとき婚約していました。二年間の約束で、彼女を日本に残し旅を続けていたのです。彼から「日本に帰って婚約者との関係をどうにかしなさい」と促され、七か月目にして、その旅行を断念しました。
母親に国際電話で「旅をやめて日本に帰る」と伝えると、「結婚したら二度とそんなことはできないんだから、旅を完結して帰って来なさい」と言われましたが、私の腹は決まっており、帰国しました。未だにこの決断に後悔はありません。神の導きだったからだと思います。旅では、タリバンが支配するアフガニスタンを通過する予定でした。そのまま旅を続けていたら、当時、ソ連と戦争していたアフガニスタンで死んでいたかもしれません。周りの人から「あなたはクレージーだ」とよく言われていました。
帰国すると、一九八〇年代当時、広告業界で成功していたアートディレクターたちに片っ端から連絡をとり、自分を売り込みました。そして、すぐにフリーのカメラマンとして仕事を始めたのです。当時は、バブルの真っただ中で、動けば動くほど、仕事をすることができました。「流行通信」や音楽雑誌、広告などの仕事で、芸能人やプロのミュージシャンをスタジオで撮るようになりました。写真雑誌「PHOTO JAPON」では、ルーキーとして私の作品の特集が組まれ、私の上昇志向に再び火が着いたのです。
神は、仕事の面でとても恵んでくださいました。しかし、私は、神に感謝するどころか、これは自分の精力的な売り込みのおかげだと勘違いしていました。まさに「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず」(ローマ一・21)という心の状態だったのです。
一方、婚約者との関係は、お互いの自我がぶつかり、苦悩する機会が増えていました。そして最終的には婚約破棄へと向かいました。プライベートがうまくいかず、徐々に私の生活に暗い陰が忍び込み、私の心は何かに縛られるようになっていました。
夢の中で、キリストが声をかけてくださる
そんなころ、アメリカで悪霊に憑かれたときに祈ってくれた牧師が実家に泊まりに来ました。彼が祖父の教会を訪ねたいというので、車で連れて行きました。私にとって久しぶりの教会訪問でした。
教会のホールで牧師が用事を済ませるのを待っていると、突然からだの力が抜け、ヘナヘナと床に倒れ込んでしまいました。すると、また腹の奥底から熱いものが上ってきたのです。それが、喉元あたりに来たとき、その言葉の内容が分かりました。
「これはやばい、自分のプライドが傷つく内容だ。言いたくない」。しかし、それを阻止することができず、「愚かだった〜」という言葉が口から出て来たのです。この言葉は自分の意思ではなく、腹から出て来たのです。そのときは、プライドが傷ついたまま家に帰りました。
その夜、ベッドに入って眠っていると、夜中の二時頃、夢の中で声がしました。男性の声で「ロマ書の6章の8節」と言うのです。そのまま眠っているのと、再び、「ロマ書の6章の8節」と聞こえます。それでもまだ眠くて寝ていると、「ロマ書の6章の8節」というさらに大きな声がしたので、さすがに私も目が覚めました。
それでいったんトイレに行き、部屋に戻る途中で母親の赤い皮のカバーの聖書を手にとり「ロマ書の6章8節」を開くと、次のように書いてありました。
「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ六・8)
しかし私には、このことばの意味がさっぱり分かりませんでした。
聖霊のバプテスマを受ける
翌朝、泊まっていた牧師に夢の話をすると、彼は興奮して、「それはキリストだ!」と言い始めました。彼は異言を出したいタイプです。以前、キリストが私に現われ悪霊を追い出した後にも、「『ラララ』と言ってごらん」と言われ、言い続けたことがありました。その時は何も起こらず、「あほらしいから帰るわ」と終わったことがありました。
しかし、このときは、彼の促しで二人で別室に退いて、彼が私の肩に手を置くやいなや、私の腹から異言が出てきたのです。それは「ラララ」とかではなく、明らかな言語でした。私に与えられた異言の解き明かしは、ローマ6章8節なのです。
異言を語り続けている間、私の前頭部が天に引きつけられるような感覚がありました。腹の底から出てきたものは、「すーっとする」とするような、曇っていない状態というのか、うまく表現できないのですが、「晴々と生きる力」のようなものでした。
翌朝、ジョギングをしていると、どこにでもある草花が「よかったね〜」と語りかけてくる感じがしました。聖書に、「被造物も、切実な思いで神の子の現れを待ち望んでいる」(ローマ八・19)と書いてあるのを後から知りました。
その体験は、思い悩んでいた自分が死んで、腹から生ける水が溢れてきて、生きる気力が満ち溢れてくるようでした。あれだけ不自由だった私の心は、聖霊による自由を味わっていたのです。
(次号に続く)
ジーザスコミュニティー国分寺牧師 桜井知主夫