🐏 ジーザスと私 ▶︎愚かだった私(はじめに)

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愚か者だった私

聖書の一部を書いたヤコブは、知恵について次のように説明している。

「上からの知恵は、見せかけがない」(ヤコブ3:17)。これから私は、神が私に善くしてくださったことを語ろうと思う。知恵とは、「見せかけがない」と聖書は言う。その知恵に従い「そのままの桜井」に、神がどれほど善くしてくださったかを分かち合わせてほしい。

私は優秀な経歴を犠牲にして、主イエスに自分の人生を捧げたわけではない。さらには、たたき上げの苦労人でも、社会の底辺から成り上がった成功者でもない。中途半端な「ちょいワル」ではあったが、極悪・極道であったわけでもない。

聖書に書かれている放蕩息子の話を聞いたとき、「ボンボンで、親からの財産をキャバクラの女の子と一緒にすべて散財してしまったダサイやつ。人間関係の作り方も、生き抜くすべも知らない愚か者」と思った。

よく考えてみると、この「愚か者」は私なのだ。キリストを知る以前の「私」には、まさに放蕩息子のような「愚か者」という表現がピッタリとくる。

愚か者であるのに、キリストは良くしてくれた

万が一、あなたが共感できるとすれば「愚か者」という部分だけだろう。「自分は愚か者ではない」と思う人にとっては、これから始まる「神は愚か者の私にでさえ、とても良くしてくださった」という長い文章を読むことは苦痛だろう。

しかし、もしあなたが「私/俺も愚か者だ」と思えるなら、「神は愚か者にも良くしてくださる」という観点から、あわれみ深く、恵み深い神が見えてくるかもしれない。

下記の詩篇は、まさに私の人生そのものだ。嘘かまことか、「神は愚か者の私にでさえ、とても良くしてくださった」を読むことによって、あなたにも神が語り、深くあわれみ、多くの恵みを与えてくださいますように。

詩篇107 キリストに向かって叫ぶと、苦悩から私を救われた

愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。

彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。

主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。

彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。

彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。

詩篇 107篇17~22節

喜び感謝しながら、キリストがしてくださったことを語る

これから分かち合うことは、愚かだった私が、キリストに向かって「助けて」と叫ぶと、彼が助けてくれたことに尽きる。

これを読んだ人が「こんな桜井でも赦され、良くされるのなら、私/俺でも大丈夫じゃなぁい?」と思ってくださったら幸いだ。それこそが、キリストが願っておられることだからだ。

キリストが良くしてくださったことを、喜んで分かち合う機会が与えられたことを、心から感謝している。

2023年夏

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この記事を書いた人

桜井 知主夫のアバター 桜井 知主夫 プロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者

やさしく学べるクリスチャンブログにようこそ! 私は、東京にあるプロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者の桜井知主夫(さくらいちずお)です。今まで、3つの教会に牧者として仕えて30年になります。’99に現在の教会を開拓する機会に恵まれ、今日に至ります。聖書的クリスチャンライフをわかりやすく説明します。

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