再びアメリカへ
アメリカでは、両親の友人の口利きでそれなりにいい大学に入ってしまった。入ったはいいが、クリスチャン・カレッジとしてはかなり学力の高いところだったので授業についていくのが大変だった。授業中、テープレコーダーで講義を録音し、部屋に戻ってから聞き直すのだが、何を言っているのかよくわからない。小学校時代に1年アメリカにいたくらいでは、大学の授業で話される英語の内容などわかるわけもないのだ。
サッカー部に入り友人もできて、楽しくはあったが、学業の方は結局、その年いい成績を収められたのは美術だけだった。2年通ったところで、このままでは卒業できないから美大に行けと先生に勧められた私は、パンフレットをいろいろ取り寄せて、一番学費が安かった美大に転入した。
ちなみに、この留学時代、仕送りをしてやる代わりに教会に行け、というのが親に出された条件だった。もとより祖父も、「両親の友人のところへ行け」と言ったのであって、「大学に入れ」と言ったわけではない。ただ、ビザの関係で学生になる必要があっただけだ。
そこで、一応約束どおり教会には足をはこび、ついでに洗礼まで受けた。と言っても、自分の罪もキリストもわからないまま、それでも受けてみようかと、思い立って受けた洗礼である。勉強は歯が立たないし、英語もままならないし、洗礼でも受ければ新しい道でも開けるかという気持ちだったのだが、当然のことながらそれで何かが変わることはなかった。
ただ、美大への転入は私のアメリカ生活の潮目を変えた。まず、教授たちもみんな芸術家で変人ばかりのこの大学の雰囲気がとても肌にあった。絵と写真を専攻したのだが、500人くらいしかいない小さな大学の中で好成績を収められるようになり、大学内の「クリエイティブ賞」というものを3年連続で受賞した。2年目に奨学金をもらえることになり、私はすっかり自信をつけ、上昇志向を強めていった。学生だけでなく、プロも参加するようなポスターのコンテストで一位になったりすると、いい気になってニューヨークにまで出かけていき、誰かに紹介してもらったコマーシャルアートの業界の人に会って、成功するためのアドバイスをもらったりもした。
キリストが現われ、助けてくれる
大学で一番の親友だったトーマスは、小鳥の頭蓋骨をイヤリングにしているような、ぶっ飛んだやつだった。父親は外交官で、スイス、フランス、ドイツに住んだことがあるという育ちの良さにも関わらず、根が反抗的でパンクロックのバンドのボーカリストをしていてすごく変わっていた。
好奇心の強い彼に誘われて、私もいろいろなところに顔を出したが、それが想像もしなかったような大騒動につながったことがある。
ある時は、「ユニテリアン」という三位一体を認めない異端の教会に行ってみた。日曜日の集会ではスティービー・ワンダーの曲を聞いて、ああでもないこうでもないと論評し合うようなところだ。礼拝でも何でもないが、それはまだ無害なほうだった。
事件が起こったのはあるクリスマス休暇のことである。両親の友人が牧会していた教会があるフィラデルフィアに帰るとき、トーマスをワシントンDCにある彼の家まで乗せていき、そこで一泊した。そしてエチオピア料理を食べに行ったのだが、その時に博物館か図書館のような建物のフェンスにヤギのマークが取り付けてあるのを見つけたトーマスが、「あそこでは悪魔礼拝をしているから、見物してみたい」と言い出したのだ。
そう言われた私には抵抗感も恐怖感もなく、それなら、という感じで促されるままにその館のベルを押した。しばらく誰も出てこなかったが、2~3分待っていると、スーツを着た男が出てきた。見学させてくれと言ったら、ダメだと断られた。その時はそれだけである。何も起こらなかったし、何も感じなかった。だがあとでわかったことだが、私はその時、悪霊につかれていたのである。
フィラデルフィアに到着して3~4日は、何事もなく過ぎていった。私は年末年始のご馳走として、アメリカ兵と結婚していた日本人のおばあさんから筋子を買って、牧仕の家の冷蔵庫の一番奥に隠しておいた。ところが彼は冷蔵庫の奥に隠しておいた筋子を見つけたらしく、大晦日に若い連中と一緒に食べようとしているところに出くわした。
私が「それは俺が20ドル(当時の円換算だと5千円くらい)も出して買ったやつだからダメだ」と言うと、彼が「何を言ってるんだ。おまえはここに居候しているくせに」と言い返してきたので喧嘩になってしまった。その場の空気はすっかりしらけてしまい、みんな、ご飯を食べるのをやめて居間の方に移動していってしまった。
私は一人台所に残されポツンとしていたのだが、やがて尋常ではないほど気持ちが悪くなってきた。実際、それは普通の気持ち悪さではなかった。立っても座っても少しも治まらず、このままでは心臓が止まるという恐怖に襲われるほどだった。
そこで、彼に救急車を呼んでくれと頼みにいったのだが、まだ怒っていた彼は「おまえなんか2階に行って寝てろ」と取り合ってくれなかった。仕方なく2階へ行こうか迷っていたのだが、救急車を呼ばないとこれは本当にまずいことになると思っていると、腹の底から何か熱いものが上ってきた。そしてその熱いかたまりが「祈ってくれ」という言葉になって口から出てきたのだ。
その言葉は絶対に自分の意思で発したものではなかった。なぜならその時の私が言いたかったことは、「救急車を呼んでほしい」ということだったからだ。それにもかかわらず、腹の底から上ってきた熱いものに「祈ってくれ」と言わされたのだ。もしその時そう言っていなかったら、きっと死んでいたのではないかと思う。
その言葉を聞いた牧仕は、さすがにただ事ではないと気付いて顔色を変えた。それが午後8時頃のことだったが、彼はそこから4時間祈ってくれた。聖書を開いてみことばを読んでは祈り、みことばを読んでは祈る。途中、「イエス・キリストは主である。これを信じるか」というようなことを聞かれ、理解しているわけではないが、死んだら困るので「Yes」と答えた。すると、その瞬間気絶し、しばらくする意識が戻ってきて、また同じことを繰り返す。
最後に気を失っている間に、私は幻を見た。ピアノ線のようなものがピーンと張っていて、私はそれにしがみついているのである。これを離すと心臓が止まる、地獄へ行く、というような恐怖感がある。しかし、最後には精根尽き果てて手を離してしまった。
奈落の底に落ちていきながら、私はこれで死んだと思った。ところが、地面に激突するかと思いきや、最後の最後に落ちる速度が急にゆっくりになり、ふわりと柔らかく地面に着いたのだ。そのまま横たわっていると、あたりがだんだん明るくなってきて眩いばかりの光で満ちると、そこにイエス・キリストが立っておられた。顔が見えたわけではない。ただ神々しい方が出てこられて、直観的に、これはキリストだとわかったのだ。
その瞬間、私は癒されて、意識が戻るなり、号泣した。それがちょうど年をまたぎ、新年になった時だった。その時、カーペットの上を、緑色のスライムのようなものが二つ這って出ていき、壁の向こうに消えるのが見えた。イエス・キリストが、悪霊を追い出してくださったのだ。
この日、牧仕の家に集まっていたクリスチャンのうち、二人の人が異言(聖霊によって与えられる、人の内側の成長を助けるための言葉)を語り始めたのだが、これは驚くべきことだった。というのも、一口に「キリスト教」とか「クリスチャン」と言っても、実はけっこうたくさんの教派があって、それぞれの教派によって重視する点や強調する点が違うのだが、その日異言を語り始めた人たちは、現代でも異言を語る人がいるとは信じていない背景の教派の人たちだったのだ。
だから、彼らが驚くべきものを見て感極まったため、気持ちが盛り上がって異言を語り始めたとは考えにくい。むしろ、その日その場所に満ちていた聖霊が、彼らに異言を語らせたと考えるのが自然ではないかと私は思う。結局その日は、牧仕がそこで聖餐式 (キリストが人間の責めを負って十字架で裁かれたので、キリストを信じる者は赦される。そのキリストを覚えて感謝する儀式)をして終わった。