🐑 ジーザスと私 ▶︎自分のプランではない道(連載11)

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アメリカからアジアへの伝道旅行に同行する

チャックの学校に通い始めて1年が過ぎようとする頃、コスタメサの教会の牧仕が中国、ベトナム、日本の東北に伝道旅行に行くと言うので、私は同行を希望し、チャックは許可を与えてくれた。

まずは香港に渡り、香港在住のカルバリー・チャペルの宣教仕と一緒に、ベトナムに行った。共産主義国のベトナムにも、アンダーグラウンドの教会がある。私たちは人脈を作るためにホーチミンとハノイに行った。その後日本に行き、東北地方での伝道旅行を終え、アメリカに戻ろうとしてアメリカ大使館に行ったら、私のビザは延長できないと言われてしまった。

私はフラー神学校に留学する時、J1という一番長い滞在を許されるビザを出してもらっていた。そのビザを持っていれば、卒業後に1年ほど、インターンのような形で実践訓練をできるはずだった。ところが、私はフラーを中退し、その時点ではチャックがやっているスクール・オブ・ミニストリーの学生になっている。ここは内容的には非常に質が高かったが、規模としては学校というより私塾に近かった。そのため、学生ビザを取得するために必要な様々な要件――学校の延床面積とか、蔵書数とかーーを満たしていなかったので、B1ビザ(商用/観光用)に変更していたのである。

思いがけずビザを失ってしまった私は、それから7か月間、スーツケース2個と共に日本で足止めを食らうことになってしまった。幸い妻と娘も日本に帰ってきていたので家族が離れ離れになることはなかったが、アメリカでの家賃750ドルを払い続けながら、そこに戻ることができなくなったのだ。

日系アメリカ人の弁護士を雇って交渉してもらうために大量の書類を送って返事を待っていると、フラー神学校に戻るのならビザを出すという話になった。そこで仕方なく1学期だけフラーに戻ることにしたのだが、折あしくその時、アメリカ大使館がストライキをしていた。すると領事が、職員が誰も出勤していない大使館に自ら出向いて行って自分で機械を操作して、私たち一家のためにビザを発行してくれた。弁護士はそれを聞いて「奇跡だ」と言っていたが、そのようにして私たちはようやくアメリカに戻ることができるようになったのだ。

新しい仕事の始まり

日本で7か月足止めを食っている間、私たちは最初の頃は私の実家で暮らしていた。しかし、実家には親戚が一緒に住んでいて、3か月もすると私たちは追い出されてしまった。それで行く所がなくなって転がりこんだのが、私と妻が通っていたA教会である。あとで聞いた話だが、実はその頃、A教会では副牧師が辞めた直後だったらしい。A教会の主任牧師は、私たち家族を教会に住ませ、ここの副牧師になって、自分の後継者になってくれないか、と言ってきた。

そこで私はビザを再発行してもらってからいったんアメリカに帰り、一学期分だけフラーに通い、チャックにもきちんと事の次第を報告し、アメリカでの生活をたたんで帰国したのである。こうして私のA教会副牧師としての生活が始まった。

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この記事を書いた人

桜井 知主夫のアバター 桜井 知主夫 プロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者

やさしく学べるクリスチャンブログにようこそ! 私は、東京にあるプロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者の桜井知主夫(さくらいちずお)です。今まで、3つの教会に牧者として仕えて30年になります。’99に現在の教会を開拓する機会に恵まれ、今日に至ります。聖書的クリスチャンライフをわかりやすく説明します。

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