再びテゼへ
私を海に向かって突進させる狂気を待っていたのに、代わりにやってきたのは「もう一度わたしにチャンスを与えなさい」という神の声だった。だが、自分の狭い世界の教会にすっかり失望していた私は、そこに助けを求める気持ちにはなれなかった。そこで、思い出したのが、テゼ共同体で私をカウンセリングしてくれたブラザー・トーマスだった。彼になら、何もかも打ち明けて相談できるかもしれない。
国際電話をかけて、これまでの事情と今の状態を話すと、「すぐに来い」と言われた。以前に「あと2週間、テゼに残れ」と言われた時も、今回、「すぐに来い」と言われた時も、この人に確信に満ちた声でそう言われると、どうも「そうすべきだ」と思えてしまうようだ。私はすぐにテゼに向かった。
それからローマへ
ところが、いざテゼに着いてみると、ブラザー・トーマスも誰もいない。ローマで大きな集会があって、みんなそこに行ったという。留守を守っていたブラザーに、「おまえも行くか」と聞かれ、「行く」と答えると、すぐにローマ行きの列車切符を用意してくれた。ローマには、ヨーロッパ中から2万5千人が集まり、会場からバスで1時間くらいのところにある修道院で寝袋生活をしながら、毎日集会に通っていた。
私もその集会に通い始めたが、大晦日の日、その日はバスが7時か8時で終わるから、それまでに帰れと言われていたのに、それを忘れて遅くまで会場に残り祈っていたので、最終バスを逃してしまった。
仕方がないから、バス停を逆にたどりながら修道院まで歩いて帰ろうとしたのだが、バスで1時間の道のりは、歩けば4時間以上だ。途中でいい加減疲れてヒッチハイクをしたら、通りかかった1台目の車が、修道院で一緒のグループのリーダーの車だった。最終バスでも帰ってこなかった私を探しに来てくれたのだ。
リーダーの車に乗せられてようやく修道院にたどり着くと、みんなは年越しカウントダウンのパーティーをしながら私の帰りを待ってくれていた。その場に入っていくと、そこにいた百人くらいの人が全員、拍手をしながら私を迎えてくれた。自分一人でなんとかしようともがいていた間はどうにもならず、助けを求めたとたんに助けが与えられ、温かく大歓迎されたこの出来事が、私には何か象徴的に思えて心に残った。
キリストの愛を示したブラザーロジェ
年が明けて1988年になった。それはベルリンの壁が崩れる前年だった。そんな時代に、共産圏のハンガリーから初めてこの集会に800人の参加者があって、それがローマの新聞の一面記事になっていた。
ある時、ブラザー・ロジェが大きな聖堂でそのハンガリー人たちを歓迎している場面に出くわした。すると、その光景を見ているうちに、私の心にはなぜかむらむらと怒りが湧いてきた。「どうせおまえは白人にしか興味がないんだろ」と思ったのだ。「結局おまえだって偽善者なんだよ」とも思った。当時の私はそれくらい、すさんでいたのだ。
それで思いきり、ロジェをにらみつけていると、なんと、彼がそんな私に気がついて目が合った。彼と私の間には25メートルくらいの距離がある。昔取った杵柄(きねづか)で目に渾身の力を込めてメンチを切っている私と、「どうしたんだ?」というふうに優しい表情を浮かべているブラザー・ロジェ。その場にいた数百人のハンガリー人たちも皆気づいて、凍りついたようになって成り行きを見守っている。
私の近くにいたハンガリー人が心配してしきりに何か話しかけてくるのを「ウザイ」な、と思っていたら、ブラザー・ロジェが人垣をかき分けて私の方に近づいてきた。それまで気がつかなかったが、彼は右手でインド人の女の子の手を握っていた。あとでわかったことだが、その子はマザー・テレサの孤児院から引き取られた彼の養女だった。
その子を連れて私のところまで歩いてくると、彼は左手で私の手を握って、ハンガリー人の「即席歓迎会」の会場になっていた大聖堂を後にした。みんなに見守られながらブラザー・ロジェに手を引かれて歩いているうちに、私の心の中のドロドロした苦く汚いものすべてが正体を現わした。それは妬みであり、うらみであり、怒りであり、自己中心性だった。そういったすべてを抱え込みながら気づかないふりをして、私はすねて苦々しい思いでいっぱいになっていたのだ。それが今、自分自身にまざまざと突きつけられて、3人で歩きながら、顔から火が出るように恥ずかしくなった。
活力と喜びが戻ってきた
大聖堂のドアの外まで来た時、ロジェは私を振り返って「おまえさんは、これからどうするんだ」と聞いた。私は「テゼに行って祈ります」と答え、そこから1か月、テゼの「沈黙のグループ」というものに入り、さんざん泣きながら朝昼晩と神のみ前で悔い改めの祈りをした。そうしているうちに、私の心の中からは鬱も自殺願望もものの見事に消えてなくなり、それまでの膿を出し切って、活力と喜びが戻ってきた。すると、それを感じた若者たちが、私のそばに寄って来るようになった。
30日間祈り、回復が与えられた時に、「日本に帰ったら、今度こそ私がきちんとつながれる本物の教会、本物の牧仕、本物の兄弟姉妹を与えてください」と祈り、私は帰国した。
今の教会を開拓してから数年経った頃、ブラザー・ロジェは、マザー・テレサの孤児院から養女として引き取った彼女が成人し、婚約したとの知らせを、彼女の婚約時の写真とともに送ってきてくれた。ブラザー・ロジェも私のことを覚えてくれていたのだ。
写真の説明
ブラザー・ロジェの手前に少しだけ見えている女の子が、上記のインド人の少女だ。彼女は、マザー・テレサの孤児院から引き取られて、ブラザー・ロジェによって養女として育てられていた。彼はこの子を連れ、私の手を握って100メートル以上歩き、大きな大聖堂の外に出た。
当の私は、大勢のハンガリー人のための「即席歓迎会」を台無しにした張本人だ。彼は、そんな私を責めることもなく、むしろ心配して「これから、あなたはどうするのか?」と気遣ってくれた。
そのとき私は負けた。というよりも、神によって彼に与えられたキリストの愛が、私の幼稚な自己中心性に対して勝利したことを直感的にわかった。ブラザー・ロジェは、霊的孤児の私にキリストの愛を示してくれたのだ。
私は、「あなたの共同体テゼに行って祈ります」と答えた。すると彼はやさしく「そうか、そうしなさい」と言ってくれた。
今の教会を開拓して間もない頃、テゼから手紙が届いた。そこには成長した少女の写真が同封されていた。手紙には、彼女が婚約したことが書かれてあった。あたかも、「あなたもキリストに結ばれなさい」と促しているかのようだった。
ブラザー・ロジェは、私のことを覚えていてくれたのだ。神は、彼を通してキリストの愛に触れることを許してくださった。今でもそのことを思うと、心の底から神に感謝が湧いてくる。そして、感謝は尽きない。