🐑 ジーザスと私 ▶︎妻に出会う(連載8)

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「本物の教会」を探すうちに妻になる人に出会う

日本に帰国した私は、腰を据えることのできる教会を探してありとあらゆる教団の教会の礼拝に出席し始めた。ホーリネス、バプテスト、ペンテコステ、単立、聖公会からカトリックまで、毎週違う教会に行って確かめて歩いた。そんな期間が1年も続いた頃だろうか。ある有名な大きな教会のスキーキャンプに参加した時、知り合った人から「桜井さん、あなたにはA教会が合ってると思う」と言われた。私は知らなかったが、それは単立で、大きな教会だった。

勧められるまま早速行ってみると、そこは私の実家から自転車で5分くらいのところだった。自由な雰囲気で印象が良かったのでしばらく通ううちに、この教会で、後に妻になる女性に出会った。

妻も私も、お互いの第一印象は決していいものではなかった。教会の中に社会人会というものがあり、そこで知り合ったのだが、私が冗談を言ってみんなを笑わせると、一人だけ笑わなかったのが妻だった。ウケ狙いが嫌いな人だから、「この人、みんなを笑わせようとしている」と思うと冷めてしまって笑えなかったらしい。私も妻のそんな様子を見て、いけ好かないやつがいるな、と思っていた。

ある日、新聞を読んでいたら、山谷で労働者への食事支援をしている牧仕の記事が出ていて、興味を覚えた。火曜日には祈祷会もやっているというので、行ってみようと計画を立てたら、私とは全く別に、教会の女の子たちが5~6人、やはりその活動に参加しに行こうとしていることを知った。そこで、じゃあ一緒に行こうということになったのだが、その中に妻もいた。

当時、私の自宅の最寄り駅と、彼女の自宅の最寄り駅が同じだったので、帰り道がいつも一緒になる。その教会には、東武東上線、西武池袋線と新宿線、中央線、京王線、小田急線、東横線、さらに田園都市線まで、ありとあらゆるところから日曜礼拝に来ていた。そんな中で、お互いに同じ路線の同じ最寄駅というあり得ない確率だった。さらに、その活動に7~8回通ううちに、他の人はみな、残業だのなんだので行けなくなり、彼女と二人だけで行くことが増えていった。そうこうするうちにお互いのことをよく知るようになり、約1年後、私たちは結婚した。このA教会では、大変な思いも味わったのだが、今振り返れば、この教会に行ったのは、ここで妻と出会うためだったのだろうと思う。

「本物の牧仕」に出会う伏線

もう一つ、今でも私のパスターであるチャック・スミスと出会えたのも、よく考えてみると、このA教会に通うようになったおかげだと思う。A教会の牧師は、70年代前半、研修旅行でアメリカに行った時にチャックと知り合っていたので、1991年にチャックが日本で講演会を行ったとき、そのポスターが教会内に貼ってあったのだ。

しかし、私は、彼が誰だか知らず、カルバリーチャペルが何だかも全く知る由もなかった。それがゆえに、このカンファレンスには、特別興味を覚えることもなかったのだが、その講演会の当日、たまたま仕事の残業がなかった。それでも迷ったことを覚えている。というのは、結婚してから住み始めた自宅と、チャック牧仕がスピーカーとして招かれていた会場が逆方向だったのだ。一瞬迷った末に、まあ、行ってみようか、と軽い気持ちで行ってみた。

「信仰義認」もう一つの伏線

新婚生活が始まった頃のこと。ありがたいことに妻が与えられたものの、それまでの罪に対して罪責感で苦しむようになった。苦しみ悩む中で、「もしかしたら、この罪責感をはね返す言葉が、聖書にあるかもしれない」と捜し始めた。すると、ピッタリの言葉があったのだ! 

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3章24節)。ここには「正しいと認められる」には、二つの理由があると書かれてある。その二つとは、「神の恵み」と「キリストの贖い」だ。これだけが、私が義(正しい)と認められる理由だと書いてあった。

「神の恵み」は、受け取るのに価しない者に、神は良いものを与えてくれるという意味だ。それが「与えられる」理由は私にはない。ただ、「神は恵み深い」というだけの理由なのだ。

二つ目の理由「キリストの贖い」とは、キリストが、私が犯した罪のために代わりに十字架で裁かれたという意味だ。つまり、キリストが私の代わりにその責めを負って十字架で裁かれた、と信じれば、罪は赦され、その信仰を正しい(義)と認める、と言っているのだ。

こんなありがたい話があるだろうか。私は「これは使える」と思った。なぜなら、私を罪責感から開放する二つの理由は、どちらも頼りない自分ではなく、揺るぎない神の性質によるのだから。私みたいな者に、神は良くしてくれる。それだけでなく、私の代わりに罪の責めと裁きをキリストが負ってくれたのだ。私はこの言葉を、事あるごとに思い巡らすようになった。

その当時、六本木で働いていて、丸の内線と西武線で通勤していた。ある日の仕事帰り、丸の内線の四ツ谷駅を通り過ぎたところで、また自責の念が襲ってきた。毎日思い巡らしていた言葉、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」を、自責の念にぶつけると、なんと自分を責める気持ちが消えてなくなったのだ。電車に乗っていた私は、心の中で「ばんざーい」と叫んだ! 神は、私を正しいと認めてくれたのだ。神が用意してくれた二つの理由を信じたからだ。「こんなことが起こるのか」と驚いて、帰宅した私は興奮しながら、この体験を妻と分かち合った。

世界史の教科書に載っていた「信仰義認」が、こんな愚か者の上に起こったのだから、ありがたいことである。世界史を教えている教諭のほとんどは、意味も理解せずに教えている。だが、こんな愚か者が「信仰義認」を体験してしまったのだ。この素晴らしい出来事の後に、私の生涯の牧仕として尊敬するチャックに出会うこととなる。この巡り合わせは、神が用意されたものだ。ただただ感謝に絶えない。

写真の説明

「マイムマイム」というフォークダンスを踊っている。マイムというのは、ヘブル語で「水」という意味だ。砂漠の地で井戸を掘り当てたときの喜びをあらわす歌でもある。歌の起源はイザヤの預言にある。「そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒れ地に川が流れるからだ」(イザヤ35章6節)。このマイムマイム(水水)は、私たちの人生に与えられたキリストの豊かな恵みを表わしている。まさに「枯れていた人生に、生ける水が注がれた」というのがピッタリだ。また、その後、私たちの人生に注がれる恵みを意味していた。そのことを思うとき、神に感謝は尽きない。

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この記事を書いた人

桜井 知主夫のアバター 桜井 知主夫 プロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者

やさしく学べるクリスチャンブログにようこそ! 私は、東京にあるプロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者の桜井知主夫(さくらいちずお)です。今まで、3つの教会に牧者として仕えて30年になります。’99に現在の教会を開拓する機会に恵まれ、今日に至ります。聖書的クリスチャンライフをわかりやすく説明します。

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