こんな私でも救われた⑦

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。(詩篇二十五・7)

嵐の中を通過する

不本意にも、実家から追い出された私たちは、以前通っていたA教会の牧師館に転がり込み、そこで副牧師となりました。しかし、数年後に、主任牧師の性的スキャンダルが明るみになったのです。牧師会で、私が主任牧師に詰め寄ると、若い女性たちへの性的な接触を認めたのです。それでも、八人の責任役員のうち六人が彼のサイドにつき、結局、私たちがそこを去ることになりました。

私たち家族は住居と収入を、子どもたちは学校の友だちを失いました。

自分に非がないのに去るという不条理に、怒りに震えていた私でしたが、「このまま怒り続けているのはよくない。主イエスの前に静まらなければ」と思い立ちました。三ヶ月の間、導きを求めて、神に叫び祈り求めました。そして、事の顛末を、チャック牧師に手紙にて分かち合ったのです。単立教会は自浄作用が機能しない危うさがあると痛感し、アメリカのカルバリー・チャペルと提携することを願いました。

一九九九年四月四日、復活祭の日曜日に、ジーザス・コミュニティ国分寺を開拓することが許されました。最初の二年間は、家族を養うためにクロネコヤマトでドライバーとして働きました。教会には、献金箱が一つだけあり、無記名で献金します。誰が、いくら献金をしているのか、またはしていないのか、分かりません。献金のアピールもしません。それにもかかわらず、今では、駅前のオフィスビルに四つの部屋を借りています。これは主イエスによる奇跡としか言いようがありません。

チャック牧師が愛を示してくれる 

カルバリー・チャペルの交わりに入れてもらいましたが、しばらくすると、その交わりの中で、とても難儀なことが続きました。その交わりから離れることを決め、それをアメリカ人の牧師たちにハッキリと告げ、国分寺の教会の兄弟姉妹にも分かち合いました。

それにもかかわらず、カルバリーチャペルの宣教カンファレンスに招かれました。そのときは、ブルックリン・タバナックル教会と提携したいと思い、ニューヨークにも行ったのですが、その直前に、不思議なことがありました。ロサンゼルス空港に行く前に、チャック牧師の本やビデオなどを購入しようと、コスタメサの教会施設に立ち寄ったときのことです。

チャック牧師の孫が私に自己紹介し、「あなたの名前は?」と聞いてきたので「チズオです」と答えました。そして、チャック牧師の妻ケイさんが祈ってくれました。次の瞬間、受付の電話が鳴り、受付の女性が「ここにチズオはいますか?」と大きな声で呼ぶのです。「はい、ここにいます」と答えると、「チャックが『チズオを愛しているよ』と、伝えてと言っているわ。羨ましい」と言うではありませんか。さらに、五百ドル分の本やビデオなどの支払いをしようとすると「もう支払いは済んでるよ。チャックが支払ったんだ」と伝えられました。

カルバリー・チャペルにとどまりなさい

チャックから愛を示してもらったその足で、ニューヨークへ行きました。9・11から三ヶ月半ほど経ったころでした。まだ暗く重たい空気が残っている中で、ブルックリン・タバナックル教会を訪問し、ビークスターフ協力牧師のオフィスで妻と三人で祈る機会が与えられました。(不思議なことに、その十七年後、彼が書いた「ブルックリン・タバナックル・霊的成長コース」というテキストを私が訳し、現在、それを教える許可を妻のイングリッドさんから与えられているのですから、神の恵みに驚くばかりです。)

帰国してから二ヶ月間、早朝に働いた後、散歩しながら、次のように祈りました。「カルバリーチャペルにとどまるべきでしょうか、もしくはブルックリン・タバナックルに近づくべきでしょうか、それとも他に導きがあるでしょうか」。雪が降り積もったある日、神はカルバリー・チャペルにとどまるように示されました。しかし、難儀な状況は変わらないままでした。

アメリカでのカンファレンスにおける拒絶と謝罪

今から三十年以上前のことですが、チャック牧師が日本のカンファレンスに来たとき、私は彼の分科会に参加しました。質疑応答のとき、私が質問しようとすると、ある日本人の牧師が「変な質問をしたら、この部屋から追い出すからな」と暴言を吐いたのです。その当時、主から低くされていた私は、自分の耳を疑いました。やんちゃな青年時代を生きた者としては「クリスチャンは暴力的なものから足を洗うんちゃうのか」と思いました。チャックも、何かを察知したようで、私の質問に「あなたはローマ書を読みなさい」と答えてくれました。

それから約十年の月日が流れ、カリフォルニアで開かれたカルバリーチャペル主任牧師カンファレンスに参加したときのことです。数千人規模の大教会のアメリカ人牧師が、相性が悪かったのか、スモールグループに参加していた私の言動を、眼光鋭く腕組みをしながら見張っているのです。「あぁ、アメリカでも荒っぽい振る舞いをする牧師がいるのか」と失望し、次のセッションは場所を変えて参加しました。

セッションが終わり出口を出ると、その牧師夫婦が、私の方へ歩いて来ました。奥さんの目には涙があり、その牧師が「先ほどは悪かった。赦してください」と言うのです。私は「赦します」と答えました。チャックに言われたのか、聖霊に示されたのか、それとも両方なのか知りませんが、彼はキリストに従ったのです。後年、彼は私たちの教会を訪れ、拙宅にて夕食をともにしたのです。それから、私が、彼の大きな教会で分かち合う機会が与えられ、彼の家で食事をともにしたのです。これがキリストに拠るのでなければ、他に何があるでしょう。彼は、主イエスに従う、私の模範です。

それ以来、多くのカルバリー・チャペルのアメリカ人牧師たちが、私の家に泊まり家族と交わり、教会を訪れ、励ましを与えてくれました。そして、私たち家族も多くのカルバリー・チャペルのアメリカ人牧師たちの家に泊まり、家族と知り合い、教会の兄弟姉妹と知り合う機会が与えられています。

一方で、暴言を吐いた日本人牧師ですが、これにも続きがあります。二十七年後に、なんと私がカルバリー・チャペルのカンファレンスで、英語で聖書を教える立場になり、彼がそこに居合わせるという逆転現象が起きたのです。私は神を畏れました。若い人たちを荒々しく扱ってはならないという教訓が与えられたのです。

不思議な夢と、ビジョンinエルサレム

教会を開拓することを許され何年か経ったある日のこと、小中学生の二人の娘が同じ日に「パパ、子どもが生まれる夢を見たよ」と言うではありませんか。それから一週間後、今度は妻が「子どもが生まれる」夢を見ました。さらに二週間後、私はエルサレムにあるカルバリー・チャペルを訪問しました。友人の牧師が「オフィスで一緒に祈ろう」と言うので祈っていると、隣の若い宣教師が「ビジョンを見た」と言い、驚いたことに「チズオの奥さんが子どもを生む」と言うのです。

この一連の夢とビジョンの解き明かしは、「健康な羊が、健康な羊を生む」です。このビジョンが、私たちを通して実現するという励ましが与えられたのです。

神はあわれみ深く、恵み深い方

どん底の生活をしていた若者が、地方から都会に出て行き、自分の夢を叶えて成功する。そんな人は周りから称賛されます。

一方で、キリストが話された「放蕩息子」は情けない男です。彼は、ぼんぼんでわがまま、父親の生前に遺産の分け前を要求しました。遊女と一緒に遺産を使い果たし、人間関係を築くこともできません。大飢饉が起こったとき、彼には頼れる人もなく、ユダヤ人が嫌う豚の世話をしました。豚が腹いっぱい食べているのに、飢え死にするかもしれないほど惨めな状況に追い込まれたのです。そのとき初めて、自分の愚かさに気づきました。

そして、「もう自分は子どもと呼ばれる資格はない。使用人の一人にしてもらおう」と自分を低くし、父のもとに戻って行きました。すると意外なことに、父親は彼を見て大喜びして、息子として迎えてくれたのです。

私も、誇れるところはまるでなし、そんな者です。それでも、父なる神は、あわれみ深く、恵み深い方であることを示されました。神のみ前では、誰も誇れないのです。ここまで神が私に良くしてくださったのは、すべてキリストのおかげです。父なる神に心から感謝し、主イエスの御名をほめたたえます!

主イエスが、あなたに、あわれみ深く、恵み深くしてくださいますように!

(了)

ジーザスコミュニティー国分寺牧師 桜井知主夫

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この記事を書いた人

桜井 知主夫のアバター 桜井 知主夫 プロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者

やさしく学べるクリスチャンブログにようこそ! 私は、東京にあるプロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者の桜井知主夫(さくらいちずお)です。今まで、3つの教会に牧者として仕えて30年になります。’99に現在の教会を開拓する機会に恵まれ、今日に至ります。聖書的クリスチャンライフをわかりやすく説明します。

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