アメリカ帰り、鼻つまみ者になる
中学1年生で日本に帰ってきた私は、すっかりアメリカナイズされた「鼻につくヤツ」だった。まず、最初に登校した時の服装からしてまずかった。制服の学ランが間に合わなかったので私服で行ったのだが、そのセンスが強烈だった。黄色いシャツに黄色と茶色のストライプのパンタロンを履き、毛糸で編んだカバンといういで立ち。「悪目立ち」もはなはだしい。しかも、アメリカで身につけた習慣で、思ったことは何でもすぐに口に出してしまう。
当然のように、級友たちからはうとまれた。アメリカに行く前は活発だが性格的にはおとなしいほうで友達もたくさんいたのに、帰国後はクラスで一番おとなしい優しい女の子からさえ嫌われるほどのつまはじきにあった。
いじめられ、喧嘩に明け暮れ、最初の1年はつらかった。教会も、以前通っていたところに戻ったのだが、1か月もするとあまりのつまらなさに行くのをやめてしまい、本当に孤独な1年となってしまった。
しかし、2年生になる頃には日本に再順応したというのだろうか、言いたいことをそのまま口に出すこともなくなり、周囲にもある程度気を遣う渡米前の私の性格に戻っていった。すると、次第に友達ができ始めた。おかげで中学2年は楽しく過ごすことができたのだが、3年生になるとまた、暗雲が立ち込め始める。
権威に楯突く不良学生
当時の中学校はどこも結構荒れていて、サッカー部でも野球部でも、集団で喧嘩をするような時代だった。私は体格がよかったこともあり、喧嘩があると駆り出されるようになった。ある時など、お祭りで高校生と一対一でバットを使って喧嘩をし、鼻の骨が曲がってしまった。そんな荒れた生活の延長で、仲間たちと家でタバコを吸いながら徹夜でマージャンをするようになっていった。
この頃は先生も先生で、体罰も横行していた。私は一度など、担任に髪の毛をつかまれて柱に頭を打ち付けられ、失神したことがある。その後、私が同級生を殴ってその先生に「何でそういうことをするんだ!」と言われて「やりたいからやったんだよ!」と言い返した時、脛に傷を持つ身の先生は黙ってしまった。その瞬間、私の中で何かが切れた。
ルールとか秩序とか唱える大人たちも、一皮むけば中身は喧嘩に明け暮れる中学生と同じで強い者に巻かれる臆病者だ。権威なんてものに意味はない。そう勝手に解釈した私は、その後、暴走行為、集団万引き、オートバイの部品の窃盗、何でも躊躇なくやるようになり、高校時代に合わせて3回も家庭裁判所に行くはめになった。
そんな生活をしながら受験期を迎えた私は、3つの高校を受験する。意外に思われるだろうが、この3つ全部に合格した。実は3年生の2学期になってから、当時学校からはみ出したような子を対象に開かれていたある塾に通い始めたのだが、そこでは2~3人のチームを組ませて学力を競わせていた。それが面白くてはまり、不良行為にいそしむかたわら、勉強もするようになっていたのだ。
合格したのは、都立普通科、明治学院東村山、そして明星学園。そこから選んだのは明星学園高等学校というところで、おそらく日本で一番自由な校風を特徴とする高校だったのではないかと思う。見学に行くと、みんな私服で、バンジョーを弾いている男子学生がいたり、マニキュアにショートパンツ(当時はホットパンツと言った!)で闊歩している女子学生がいたり、授業も自分で選択する部分が多くて、まるで大学のような雰囲気の高校だったのだ。
高校に入ってからは暴走族の集会にはまり、不真面目な態度を改めることもなかった私は、午前のうちはパチンコに行って、喫茶店に行って、午後になってからオートバイで教室の前に乗り付け、帰りに雀荘に行くというような生活だった。
担任のショッパチは、学生時代に学生運動で公安につかまって、教師になってからもまだその頃の裁判を引きずっているような人だったから、私のような悪ガキが暴走族に入っていたり、タバコを吸うくらいのことは気にも留めない。
この人のことは好きだったが、何をしても叱ってくれないので、私の権威をなめる態度は助長されるばかりだった。今振り返っても、この高校時代に与えられていた「自由」は、私にとっては扱える代物ではなかったと思う。自分を律して自由を使いこなすことのできる子ならいいが、私にとっては図に乗るだけの場になってしまっていた。
3年後、少なすぎる出席日数も、多すぎる遅刻の回数も、ショッパチが書き換えてくれたおかげで卒業だけはできたが、当然ながら大学受験には失敗し、予備校生になった。一浪目の予備校生時代までまだ暴走族に出入りしていたが、ある時違うグループとの喧嘩を求めて、私たちの車に乗っていた者全員が、後続のメンバーを待たずに100名近い相手に喧嘩を売った。ところがなんと、奇跡的にかすり傷ひとつ負わずに帰宅できたのだ。この出来事は、自分が愚か者であるのにかかわらず、神が守ってくださった奇跡としか言いようのないものだった。一方で、たまたまその日、突然私たちの車に乗って来た強面の裏社会関係者だけが逮捕されそのことで恨みを買ったらしいとわかり、「意味がわからない」という怒りと、何をされるかわからないという恐れから、暴走族の集会に行くのにも冷めてしまった。
その時19歳、それまで遊びまわっていたつけが回って、受験のほうは2浪してもらちが明かない。ここで祖父が介入してきた。アメリカで牧会をしている両親の友人のもとへ行けというのである。
この人とは、12歳の時、私がアメリカに行ったときに会ったことがあった。彼の家族と私の両親とでよく集まっていた。その時、私は彼の小さな子の面倒を見ていたことを覚えている。
このままもう1年予備校に通ったところで大学に受かる気はしなかったし、他にどうすればいいというあてもなかったので、私は数年ぶりに再び、アメリカで生活することにした。