🐑 ジーザスと私 ▶︎わたしのために生きよ!という声(連載1)

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神に献げられた赤ちゃん

1958年4月、桜の花が舞う日曜日の午後、東京荻窪の衛生病院で私は生まれた。母は、「最初に胎から出てきた男の子は、神のもの」という聖書のことばが強く印象にあったので、ベッドの上で「天のお父様、この子をあなたに献げます。」と祈った。だが、私がそれを知るのは、牧仕になって20年以上が経った時だった。

突然始まったアメリカ生活

1970年。名古屋にはケンタッキー・フライド・チキンの1号店がオープンし、銀座にはマクドナルドの1号店がオープンした年だ。海の向こうから運ばれてくるアメリカ人の食生活を、われわれが驚きと憧れをもって取り入れ始めたこのころ、1ドルはまだ360円だった。

今のように誰もが気楽に海外旅行をするような時代ではない。「帰国子女」なんて言葉もなかった。だが、我が家は一家そろってアメリカに引っ越すことになり、12歳だった私は、冗談じゃないとむくれていた。父の仕事の関係で1年間、フィラデルフィアに行くことになったのだが、当時友達がたくさんいて学校生活を大いに楽しんでいた私としては、そのすべてと離れてどうしてアメリカなんかに行かなきゃいけないのか、自分だけ置いて行ってほしい、という気持ちだった。

だが、もちろん、そういうわけにはいかない。父と母、弟と妹と一緒に私はアメリカに渡った。実は、父の仕事先から赴任手当として出ていたものは、父一人分の額だった。だが、クリスチャンだったうちの母は妙に肝が座っており、かつ、家族は一緒に暮らすべきという信念も持っていた。それで、「どうにかなるでしょ」とばかりに家族5人での引っ越しとなったのだ。

そんなわけだったから、生活は苦しかった。家具は全部、アメリカで通うようになった教会の人にもらい、テレビもおさがりの白黒だった。自転車も買えないから、私は大家さんの家の芝生を刈って、その代わりに自転車を借りて学校に行ったりしていた。

いやいや行ったアメリカだったが、学校生活にはすぐなじむことができた。もちろん、英語はまったくできないまま行ったから言葉の苦労はあったし、ジャップ(日本人を蔑んで呼ぶ差別用語)と呼ばれたり、他校の子どもたちに襲われて自転車を壊されたりと苦労もあったが、その街で私の身のまわりにいた外国人は我が家とインド人の一家だけだったので珍しがられ、やがてクラスメイトは我先にと誕生会に私を招きたがるようになった。

冬になると、マンションの広い敷地内にある池が凍り、そこでアイスホッケーを楽しんだ。ほかにも、アメフト、サッカー、バスケなど、スポーツに明け暮れ、気がつけばクラスの中心的存在になっていた。日本を離れる時に自分だけ置いていってほしいと思ったことが嘘のように、アメリカでの生活を謳歌していた私だったが、父の在米期間は最初から一年と決まっていた。またしても、仲良くなった友人と別れ、新しい環境に飛び込んでいかなければならなくなったのである。

このアメリカ滞在中に、印象的な出来事があった。それはクウェーカーのアメリカ人女性の家に招かれて行った時のことだ。彼女が、私を指差して「この子は将来、牧師になります」と預言したのだ。果たしてそのとおりになったのだが、私がそのことを知ったのは、牧仕になってから数年が過ぎた時のことだった。

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この記事を書いた人

桜井 知主夫のアバター 桜井 知主夫 プロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者

やさしく学べるクリスチャンブログにようこそ! 私は、東京にあるプロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者の桜井知主夫(さくらいちずお)です。今まで、3つの教会に牧者として仕えて30年になります。’99に現在の教会を開拓する機会に恵まれ、今日に至ります。聖書的クリスチャンライフをわかりやすく説明します。

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