さあ、わたしは来ました。
聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、
神よ、あなたのみこころを行なうために。(ヘブル10章7節)
チンプンカンプン・クリスチャン
ある時、私は「そうだ、教会を探そう」と思い立ちました。いろいろな教会に行ってみました。その時の私は鈍感で、教会を選ぶ基準がわかっていませんでした。「同じ年代の人たちがいるのはいいね」「教会員が大勢いるのもいいね」「牧仕のキャラもいいね」といった具合で、教会を選ぼうとしていたかもしれません。
しかし、霊的に鈍感だった私でも、「聖書を教えている教会の方がいいかな」と頭の片隅で考えていました。牧仕が自分の言いたいことだけを言っているのを聞くよりは、聖書が語っていることを聞きたいという思いがあったのも事実です。
教会とは何か? クリスチャンとは何か? 救いとは何か? 祈りとは何か? フェローシップとは何か? 聖餐式とは何か? 奉仕とは何か? 伝道とは何か? 神とは何か?……以上のことについて、チンプンカンプンだった私でした。
では、あなたはどうだったのでしょう。そして今のあなたはどうなのでしょう。あなたがクリスチャンになって時間が経ったのであれば、以上の質問にスラスラと答えることができるようになったでしょうか。
聖書に記されているとおり、みこころを行なう
冒頭の聖句にあったように、キリストご自身でさえ「聖書にあるとおり、みこころを行う」と言われています。つまり、聖書を知らなければ、神のみこころを行なうことはできないのです。
私は、教会を選んだ後も、聖書をよく知らなかったので、神のみこころについてはよくわかりませんでした。神が、何をおやりになりたいかがわからなければ、進む方向もわからず動きようもありません。
私は月に1度、「緑の牧場」という集会を自宅で開いていたのですが、聖書を学ぶ機会というよりは、参加者が「キリスト教についてどう思っているか」を話し合うものでした。
これは盲人が盲人を導くような集会で、聖書を開くことはあまりありませんでした。聖書に何が書いてあるかを知らない人間が集会を開いていたのですから、今思えば笑ってしまいます。
「帰納的聖書の学び方」があります。この学びを世界中で開催しているダン・フィンフロック牧仕によると、「聖書を解き明かしていない教会には、茶色の枯れ草の牧場が広がっている」と言っています。
前述のように、私は「緑の牧場」という集会名にしたのですが、実態は「茶色の枯れ草集会」だったのです。キリストご自身でさえ、「聖書に記されているとおり、みこころを行う」と言われたのですから、集会で聖書に何が書いてあるかを学ばなくて、どうして私たち人間が神のおやりになりたいことを知ることができるでしょう。
帰納的に聖書を読むってどういうこと?
前項で、「帰納的聖書の学び方」について触れました。これは客観的に聖書を読むということです。この学び方は、三つの段階を通過します。
第一に「観察」。つまり、いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように(5W1H)という観点から、聖書を読むのです。第二に、「解釈」。つまり、どういう意味かを判断することを意味します。三番目に「適用」。つまり、自分に当てはめて実行することを意味します。
私は、このように読むようになるまで、ずいぶんと時間がかかりました。そして、最初の「観察」もテキトウでしたから、解釈も適用もテキトウでした。ですから、キリストが「真理はあなた方を自由にする」と言われたことが、自分に実現することもありませんでした。
聖書を知ることは、神を知ること
聖書を読まなければ、神がどういうお方か、すでに何をしてくださったのかを知ることはできません。さらに、神が私たちに何を願っておられるのか、神がどのように私たちを助けてくださるのかもわかりません。
パウロは使徒の働きの中で、「私は神のご計画(カウンセル=考え方、態度、行動の指針)の全体を余すところなく、あなたがたに伝えておいたから、あなた方が受けるさばきについては責任がない」と宣言しています。聖書の創世記から黙示録までを学ばなければ、神のご計画(カウンセル)の全体を知ることはできません。
1年は52~53週間しかありません。つまり、日曜礼拝は1年間で多くても53回しかないのです。そのうち、クリスマスなどの特別集会を除くと、40~50回くらいしか聖書に触れることはありません。しかも、あなたが通っている教会の牧仕が、聖書を教えるのでなく、自分の興味ある分野だけを語っていたら、いつまで経っても「神はどういう方か」「何をしてくださったか」が、さっぱり見えてきません。牧仕の興味あるトピックを聖書でなぞるようなメッセージを聞かされ続けたとしても、神のご計画の全体は見えてこないのです。
けれどもパウロは、神のご計画(カウンセル)の全体を伝えることに全力を尽くしてきたと明言しているのです。そうでなければ教仕である自分の責任が、神から問われるとシリアスな話をしているのです。
緑の牧場となるために
繰り返しますが、私は牧仕になる前に、「緑の牧場」という家庭集会を開いていました。しかし、実態は「茶色の枯れ草牧場」でした。今では、聖書を機能的に学ぶことを知り、また、神のご計画の全体を学ぶ大切さも知るようになりました。
ただただ神の恵みによって、現在はジーザス・コミュニティという教会を牧会する機会が与えられています。多くの失敗と、神のあわれみと恵みによって、今の私があります。神は忍耐してくださり、ご自分の教会が緑の牧場となるように導いてくださいました。
キリストの羊である皆様にお伝えしたいのは、教会を探しているなら「緑の牧場」に行かれることです。具体的には、帰納的(観察・解釈・適用)に聖書を教えている教会、神のご計画の全体(創世記から黙示録)までを教えている教会に行かれることをお勧めします。
そこでこそ、あなたが食べる栄養に満ちた食物(緑の草)を得ることができるのです。ぜひ、そのような教会で、神がどれほどあなたを愛しておられるか、また、神があなたに何を願っておられるか、そして神がどのようにあなたを助けられるかを知っていただきたいのです。
父なる神が、キリストによってあなたを緑の牧場に導き、案内してくださいますように。