自分史、それともキリスト史
あなたは、クリスチャンの証を、教会堂内や、ネット動画で視聴したことがありませんか。
「証」をするのが難しいのは、無意識にも自分を証することになってしまうからです。聴衆は、あなたの「自分史」を聞かされることになってしまうことが多々あります。かくゆう私も、気をつけていないと、自分史を語ってしまいます。
もちろん、自分史は大切です。あなたと私の自分史の中に、神が介入されたのですから。
30年間牧会させていただく中で、私も、いろいろな証を聞く機会に恵まれました。
自分は、どれだけ悪かったか、どれほど能力があり成功したか、どれほど平凡だったか。
実にいろんな自分史があります。喋りが上手ければ、ついつい聞いてしまいます。
そして、「証」の喋りが終わった後に、ふと思うのです。「あれ、この人は、自分史だけを語っていたね。キリストはどこに登場したのかな」と。
キリストを証しするとは?
キリストは、次のように言われました。「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカ24:46-48)
キリストは何を証しして欲しいと言われたのか? 以下3点が証しの核心部分です。
- キリストは苦しみを受ける、つまり十字架とそれまでのご自身の苦しみ
- 三日目に死者の中からよみがえる
- 罪の赦しを得させる悔い改め
あなたと私は、この3点に着目する必要があります。私たちの自分史の中に、この3点がどのように登場するのか。この3点が自分史に登場するように書き加える必要があります。
あなたと私の罪のために苦しんで死なれたキリストが、自分史に登場しますように。
古い自分が死んで、新しい自分がキリストとともによみがえり、新しい始まりが与えられたことを証できますように。
そして、罪を犯していた愚かな自分が、神のあわれみと恵み、そして神の助けによって、新しくキリストに従って生きるようになったことを証言できますように。