👬 1章2:なぜキリストの弟子になりたいのか(弟子になる 連載2)

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神の愛とは赦す愛

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」(Ⅰヨハネ4:10)

なだめのささげ物とは、神をなだめるための犠牲(いけにえ)という意味です。もちろん神が喜んでおられるのになだめる愚か者はいないと思います。そうではなく、神が私たちの罪について抱かれる怒りをなだめるために、キリストは天から遣わされたのです。

神は正しい方なので、私たちが正しくないことを言ったりやったりすることに対して、怒りを覚えられます。例えば、私たちが愛のない発言や行動をするとき、神は怒りを覚えられるのです。神はそのような私たちの態度や行動に現われる罪を罰せざるを得ないのです。それは、一にも二にも、神が正しいことに起因します。神は真実で正しい方だからこそ、正しくないこと、つまり罪を罰せずにはおられないのです。

しかし一方で、一見矛盾しているようですが、神は真実で正しい方だからこそ、罪を赦しすべての悪から私たちをきよめてくださるのです。ヨハネは、次のように言っています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)

神が私たちを罰そうと待ち構えておられるなら、つまり、神の怒りを私たちの頭上に炸裂させようとしておられるなら、私たちは安心して神のみもとに行くことができなくなります。神と私たちの間には平和はないことになります。

しかし、神は私たちの罪を赦すために、また、罪に対するご自分の怒りをなだめるためにキリストを遣わされたのです。パウロは次のように言っています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」(Ⅱコリント5:21)。キリストが私たちの罪のゆえに代わりに苦しんで死んでくださったのです。そのような方法で、神はご自分の怒りをなだめられました。こうして、私たちが安心して大胆に神の御前に出られるようにしてくださったのです。神は、愛する子どもとして私たちを喜んで迎え入れてくださいます。「ここに神の愛がある」と、ヨハネは宣言しているのです。

罪深い女がキリストを愛した理由(わけ)

ルカは、事実に基づく興味深い「罪深い女」の話を記録しています。キリストが地上におられたとき、ある町に、罪深い女が住んでいました。おそらく売春婦だったと思われます。この女性は、キリストについて聞き続けました。テレビもスマホもないのに、多くの奇蹟や癒しをなさり神の国について教えられたキリストのことは、口コミで、すごい勢いで周辺地域に広まっていました。人々は、キリストを一目見ようと殺到したのです。

多くの人々が、キリストについて言い広めたので、罪深い女性もキリストについて耳にしました。1度や2度でなく、何度もキリストについて耳にしたのです。そしてある日、「キリストはこんな罪深い自分を受け入れ、この深い罪を赦すことがおできになる」という信仰が与えられたのです。

信仰が与えられた彼女は、キリストに対する自分の愛を表わすために、キリストに会いに行きました。しかし、1つ問題がありました。それは、キリストがパリサイ人シモンの家にいたことです。このパリサイ人というグループに属している人たちは、自分の力で律法を守ろうとするアスリートのような存在で、ルール(律法)を守れない力の弱い者たちを見下していました。罪深い女性など、躊躇せずに門前払いにするような人たちがパリサイ人だったのです。

それにもかかわらず、罪深い女はキリストに会いに行きました。罪深い女を拒絶しないイエスを見たパリサイ人シモンは、案の定「イエスは、この女が罪深いのが分からないのか!」と心の中でつぶやきました。すると、キリストは「シモン、あなたに質問がある。あるところに、金貸しからそれぞれ50万円と500万円を借りた人たちがいた。しかし、金貸しは、その両者の借金を帳消しにしてあげた。どちらが余計に金貸しに感謝して愛すると思うか?」と尋ねられました。

シモンが、「余計に赦してもらったほうだと思います」と言うと、キリストは、「あなたの判断は当たっている」と言われました。そして続けて、「あなたはもてなしてくれなかったが、この女はわたしの足を洗い、足に口づけし、高価な(300〜400万円)香油を注いでくれました。だから、わたしは言うのです。この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです」と言われました。

それだけではなくキリストは続けて、大切な大原則を高らかに宣言されました。「赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」(ルカ7:47)

でもなぜ、この罪深い女性は、そこまでキリストによくしたのでしょう。実は、彼女がキリストを多く愛したから、深い罪が赦されたのではありません。キリストが言われた意味は、「彼女が多くわたしを愛したことによって、彼女の多くの罪が赦されていることが明らかになった」ということです。それは、ヨハネが宣言した「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」(Ⅰヨハネ4:10)という言葉とも調和します。

つまり、以前は毎日のように売春で客を取っていた彼女でしたが、あるときから自分の良心が痛み始め、罪責感に悩まされるようになり、そこから解放されたいと心の奥底で願うようになったのだと思います。そんなある日、キリストには罪を赦す権威・権限が与えられていることを耳にしたのです。

この情報は、キリストが働きを始められた初期のものですが、彼女も耳にしたはずです。

「『人の子(キリスト)が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るためにーー。』そう言って、中風の人(神経が冒されていて立つことができない人)に言われた。『あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。』すると彼は立ち上がり、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行った」(マルコ2:10-12)

彼女はこの話を聞きました。

この話には、キリストが罪を赦す力を持っていることを人々が理解するために、視覚教材として、この中風の人を癒された側面があります。「わたしは、この難病を癒す力があるのだから、罪をも赦す力も権威も持っているんだよ」と示されたのです。

彼女はこの話を聞きました。さらに、ユダヤ人たちがつき合わないはずの異邦人で、ローマ軍の百人隊長の願いをイエスが聞き入れて、彼の部下を癒されたことを聞きました。それだけでなく、イエスはご自分の国を支配しているローマ軍の百人隊長の信仰をほめられたことも聞きました。

彼女は、思ったはずです。「イエスが異邦人でも受け入れるのであれば、こんな私でも受け入れられるのではないだろうか」。さらに、「難病を癒す力があるのであれば、罪を赦す力もあるのではないだろうか」とも思ったはずです。

イエスには難病を癒す力があるだけでなく、次のような力も持っておられたことが、イエスの発言から分かります。「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」(ルカ7:22-23)。彼女は、このようなナザレのイエスについての情報を聞き続けました。

そして、ついにある日、彼女にキリストについての信仰が与えられたのです。彼女は、自分の深い罪が赦されたことを理解しました。「ハレルヤ! 私は赦された!」彼女に確信が与えられたのです。そして、彼女はイエス・キリストが自分の町にやって来られたことを聞きつけました。しかし、それがパリサイ人シモンの家と聞いた時には、多少ひるんだかもしれません。

それでもキリストが与えてくださった大きな赦しを思うと、たとえパリサイ人の家だろうが、キリストを愛しにいくのであれば、キリストが守ってくださるという信仰も与えられたのです。彼女は、パリサイ人の家に入る前に、赦されたという信仰が与えられていたのです。だから、キリストを愛したいという欲求も与えられていました。その愛したいという欲求によって、パリサイ人の家というハードルも乗り越え、主イエスのもとへと辿り着き、キリストに多くの愛を示したのです。

キリストは、その彼女に向かって言われました。「あなたの(キリストを信じる)信仰があなたを救ったのです」(ルカ7:50)。彼女は、「キリストは、こんな私でも受け入れてくれるだけでなく、助けてくださる」と信じました。彼女は、自分の良心を苛んでいた罪を赦していただけると信じたのです。

この女性のような信仰こそが、私たちに必要なものです。ここが、弟子になる出発点なのです。つまり、キリストを愛したいという欲求こそが弟子になる上で必要なものなのです。

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この記事を書いた人

桜井 知主夫のアバター 桜井 知主夫 プロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者

やさしく学べるクリスチャンブログにようこそ! 私は、東京にあるプロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者の桜井知主夫(さくらいちずお)です。今まで、3つの教会に牧者として仕えて30年になります。’99に現在の教会を開拓する機会に恵まれ、今日に至ります。聖書的クリスチャンライフをわかりやすく説明します。

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