2章2:キリストの弟子になるには

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弟子とは、自分の十字架を負って キリストについていく人

12弟子たちは、3年半の間、キリストと寝食を共にしました。キリストについていくようになってからしばらく経ったある日、主イエスは弟子たちに、次のように言われました。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:27)。これが、キリストご自身が語られた【キリストの弟子】についての定義の1つです。

それでは、「自分の十字架を負ってついていく者」とは、いったいどのような人なのでしょうか。ホームセンターに行って部材を購入して自分が担げるほどの大きな十字架を制作しなさいという意味でしょうか? それとも、他に「自分の十字架を負う」という意味があるのでしょうか。

あるとき、テレビを見ていたらドラマ番組の宣伝をしていました。そのときナレーターが「これが冬彦の十字架だった」とドラマチックな声で言っていました。それを聞いた私は「冬彦の十字架って何だろう?」と興味を持ちました。よく聞いてみると、冬彦が何かを失敗して、やらかしてしまった負の遺産を、残された人生においてずーっと負っていかなければならないという意味でした。はたしてキリストは、そのような意味で「自分の十字架を負ってついてきなさい」と言われたのでしょうか。

キリストは、十字架を制作しなさいとも、負の遺産をずーっと負い続けなさいとも言われませんでした。キリストは十字架につく直前、ゲツセマネ(「オリーブを圧搾して油を注ぎ出す」という意味)の園で、3回「この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」(ルカ22:42)と祈られました。

ゲツセマネの園で、キリストは天の父に対して、自分が十字架につけられることを回避してくださいと、3回にわたり願っておられたのです。主イエスは、この地上におられたときに、天の父に多くの祈りと願いをされ、そのすべてがことごとく、叶えられました。しかし、たった1つの願いだけは聞かれなかったのです。それが、この「十字架につきたくない」という願いでした。この願いが叶えられていたら、今日私は、この文章を書くこともなかったでしょう。また、みなさんも、これを読む機会はなかったでしょう。そもそも、十字架がなければ、人間には神との関係が与えられないのですから。

イエスには、肉の思いとして、十字架という世にも残酷な死刑を回避したいという願いがありました。しかし、ありがたいことに、キリストは自分の肉の願いではなくて、父の御心が実現することを優先されたのです。ですから、「十字架を負ってキリストについていく」とは、自分の願いよりも、神の願い(御心)を優先することを意味するのです。

それでは、父の御心とは、いったい何を指すのでしょうか?

父なる神の御心(みこころ)

しばしば私が耳にするのは、「この学校に入ることは御心だろうか?」とか「この職場に入ることは御心だろうか?」とか「この人と結婚することは御心だろうか?」「○○をすることは御心にかなっているだろうか?」という質問です。その質問自体は、神がどのように思っておられるかということを探り求めているので素晴らしいことだと思います。

しかし、キリストは最も重要な父なる神の御心について次のように述べられました。「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子(イエス・キリスト)を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです」(ヨハネ6:39-40)

父なる神の御心について整理すると、明らかになることが2つあります。

  • キリストに与えられた者を終わりの日によみがえらせる
  • キリストを信じる者が永遠のいのちを持つ

以上が、父なる神の心の中でもとても大切なことです。この2つの御心を通して明らかなことは、あなたをご自分のもとに永遠に迎え入れたいという父なる神の熱い思いです。

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この記事を書いた人

桜井 知主夫のアバター 桜井 知主夫 プロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者

やさしく学べるクリスチャンブログにようこそ! 私は、東京にあるプロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者の桜井知主夫(さくらいちずお)です。今まで、3つの教会に牧者として仕えて30年になります。’99に現在の教会を開拓する機会に恵まれ、今日に至ります。聖書的クリスチャンライフをわかりやすく説明します。

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