2章1:キリストの弟子とは?

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「弟子」という言葉に抵抗を覚えた理由

1章の中で、なぜ私が弟子になることに対して躊躇していたのか、その2つの理由をお話ししました。繰り返しにはなりますが、第1の理由は、神から愛されていることが充分に理解できなかったからです。弟子となって従う相手が、自分を親身に愛してくれることが分からなければ、そのような相手に自分の人生を預けるのを困難に思うのは当然のことです。

2つめの理由は、日本語の「弟子」という言葉の響きに、閉鎖的で、かつ不条理な精神論のようなものを感じていて、本来聖書が言っている【弟子】の定義を理解できなかったからです。しかし、聖書を読み続けているときに、聖霊が私を助けてくださり、キリストが言わんとしておられることを理解できるようになりました。

それでは「キリストの弟子」とは?

キリストの弟子となるということは、悲しいことでも憂鬱なことでもありません。逆に、キリストの弟子になるということは、喜びに満ちたものなのです。読者のみなさんがそれを理解する助けになることを願って、この章では【弟子】の定義について説明させていただきます。

聖書を調べてみると、キリストご自身が、【キリストの弟子】について、少なくとも4回にわたり定義されています。これから、その4つの定義について説明したいと思います。

その4つの定義を以下に記します。

1)弟子とは、自分の十字架を負ってキリストについていく人(ルカ14:27)

2)弟子とは、キリストのことばにとどまる人(ヨハネ8:31)

3)弟子とは、互いに愛し合う人(ヨハネ13:35)

4)弟子とは、実を結ぶ人(ヨハネ15:8)

1)から4)の定義まで、みなさんが読むときに、聖霊が理解を助けてくださいますように。そして、喜びに満ちた歩みへと進めますように!

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この記事を書いた人

桜井 知主夫のアバター 桜井 知主夫 プロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者

やさしく学べるクリスチャンブログにようこそ! 私は、東京にあるプロテスタント・キリスト教会、ジーザス・コミュニティ国分寺の牧者の桜井知主夫(さくらいちずお)です。今まで、3つの教会に牧者として仕えて30年になります。’99に現在の教会を開拓する機会に恵まれ、今日に至ります。聖書的クリスチャンライフをわかりやすく説明します。

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